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米倉先生とのご縁

日本医療心理学院

 昭和の時代のお話です。東京都杉並区荻窪に蛍雪学院という医学部受験のための予備校があったそうです。その予備校に通うお子さんたちのご父兄が仲良くなり、医療関係者どうしの集まりができました。そこでは「これからの日本社会には『こころ』を扱う医療が必要になる…」そんなことを話し合うようになられました。

 米倉先生の師匠であった催眠療法の大家、森定一先生もその集まりに参加されていたことから、話が盛り上がり心理療法を教える学校をつくろうとなったとき、森定一先生を初代学院長として立てて『日本医療心理学院』は創立されました。

 

 時期をおなじくして、日本の医療界には、心療内科という標榜科目がうまれました。森先生は、「日本医療心理学院のこれからの発展に、催眠療法だけでなく、学術的で幅広い分野の知識と技術が必要」と仰り、当時の東京都内にあった各大学の医学部のなかで、心療内科学を教えていらした教授たちからおひとりをお招きして学院長を譲られました。

 森先生は、ご自身の代々木の診療所に戻られ、催眠医学研究所での臨床活動に集中されていましたが、米倉先生をはじめ、森先生のお弟子さんたちがかわらず日本医療心理学院に催眠療法を教えにいらしてくださる関係が長く続いたと聞いています。

 私が日本医療心理学院に入学したときには、米倉先生も森先生の後を受け継ぎ、日本催眠心理研究所を設立されたばかりでした。

毎日が予約でいっぱいで、お忙しく、講義に来られる時間もなくなった頃でした。

​ちなみに、堀江先生も日本医療心理学院ご出身で、私の数年先輩です。堀江先生はご自分から米倉先生の元を尋ねられたと聞いています。

​日本催眠心理研究所 小村 真琴

​角松 武雄 理事長

 蛍雪学院を運営されていたのは角松武雄先生でした。理事長として、日本医療心理学院を立ち上げられ、森先生に学院長をお願いされたのも角松先生でした。

 私が入学したときの日本医療心理学院には、臨床の研修と実践の場として『第一荻窪クリニック』という心療内科の診療所が併設されていました。

心療内科が生まれた九州大学や、東京大学、日本大学など、いろいろな大学から教授クラスの先生方が来られて実際に診察を行っておられました。

 私たちは、各先生方について陪席(診察に同席する研修)させていただきながら患者さんの理解のための経験を積ませてもらいました。

​ 角松先生は、米倉先生のこともとても可愛がっておられました。私が角松先生の食事のお供をすると、よく、数年前に亡くなられたという森先生のお話しをされ、そのたびに米倉先生のことを案じておられました。

 そんなある日、「小村、お前米倉と会ってみるか」と言われて、その場ですぐ代々木の研究所に電話をかけられ、米倉先生のアポをとることになりました。

日本催眠心理研究所 小村 真琴

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